やれやれと思ったら、不法駐輪で警察から家に電話がかかってきたのです。警察官の人が
「名義はお宅のお嬢さんなんですが、とても女の子の乗れるようなオートバイじゃないので・・・」
といっていたそうです。母は薄々は気付いていたようですが、まさか自分のバイクまで持っているとは思っていなかったようでなんとかごまかして、切り抜けましたが・・・。ひやひや・・・

このあと、近くに駐車場を借りて、バイクをとめていました。警察の人にそうしろと言われたので。
でも、バイクを停めさせてもらえる駐車場を探すのは大変でした。

バイクに乗れる事はうれしかったのですが、毎日バレないか心配で心配で。
バイクに乗っているということを悟られないために、真冬でも
普通のジャンパー程度しか着ずに走っていて、ものすごく寒かったです。

そんな思いをしてまで・・・と思われるでしょうがそれでも乗ることがうれしかったのです。
いつか言わなければ・・・と思いながら、日にちだけが過ぎていきました。
しかし、とうとう運命の日がきてしまいました。当時つきあっていた彼とタンデムでデートしていたら、事故にあってしまったのです。生まれてはじめての交通事故。でも、本当に何も覚えていないのです。
裁判での証言として、信号の色など聞かれましたが、記憶にないものは答えられません。
周りからは
そんなことあるはずがない
都合が悪いからといってとぼけるな
などとさんざん責め立てられました。

後で聞いたのですが、このように事故などにあって、それ以前の記憶までなくなってしまう状態を
「逆行性健忘」(説明は一番下)
と言うそうです。

事故は交差点内、対向の右折車(相手)と直進のバイクでの事故でした。(43号線は大渋滞になったそうです・・・ゴメンナサイ)相手は軽いむちうち、彼は左鎖骨、右腕骨折、右足ひび、私は、首の骨折(首の骨折れたら死ぬんじゃないのかーといろんな人に言われた)、肋骨2本骨折と右足ひびでした。二人とも、腕や顔がガラスなどで切れて傷だらけになりました。

気がついても何がなんだか全く分からず、指や腕を縫われていたという記憶がぼーっと残っています。。事故の時の記憶はもちろん、事故前の記憶も抜け落ちてしまっているので、なぜ自分がこうなっているのか、しばらく理解できず、看護師さんに
「分かる?事故に遭ったのよ」
と何度も声をかけられたのを覚えています。

事故の記憶といえば、ただただ毎日痛くて痛くて眠れず、かなり辛かったということだけです。
首が動かないと、物もとれないし、食事も満足にできないのです。こんな動きにも首を使っていたのかと改めて感じました。

退院してもコルセット生活でもう辛くて辛くて・・・しかも親に内緒でバイクを買ったこともバレ、もう針のムシロ。自分でまいた種とはいえ、辛かったです。どこにも逃げられないし、自分で何もできない・・・。あの1ヶ月は地獄でした。
でも、バイクに乗った事への後悔はありませんでした。
なかなか話し合いがうまくいかず、もめにもめました。事故を起こすとこんなことになるのかと、本当に愕然としました。(運転者と持ち主が違ったことも関係がありました。)

私のぐしゃぐしゃになったオートバイを処分し(目の当たりにすると、ショックです…)、彼のオートバイは眠ったままになりました。彼は前ほど腕を上にあげたり、横に開いたりができなくなったらしく、かなり改造した自分のバイクには乗れないとのことでした。

これからしばらく、バイクには乗れない日々になってしまうのでした。
自分が起こした事故ではないとはいえ、勝手に免許を取って、バイクを買って乗り回し、好き勝手していた私、今の状況で、又バイクに乗るとは、とても言えませんでした。
でも、あの一瞬の事故でいきなりバイクに乗れなくなり、とても辛かったです。
事故は7月だったので、まだまだシーズン中、アメリカンをみる度にうらやましくて仕方ありませんでした。
冬になれば、まだ気がまぎれました。例えば電車に乗ると
「バイクなら死ぬほど寒いけど、電車なら暖かい」
と自分にメリットを言い聞かせるようにすることもできなくはありません。

でもやっぱり乗りたい気持ちは捨てられず…
みんな気持ちよさそうに走っている。私はもう二度とバイクに乗れないかもしれない・・・。
2002年のシーズンは一番辛かったです。

でも、あるときふと思ったのです。
もう私もいい年になって、本当にしたいことをやりたいといってもいいんじゃないか
って。自分で責任がとれるなら。

今年はお金をためて、来年のシーズンには絶対に乗る!
そう決めると、道行くバイクをうらやましく見て、シュンとなるのではなく、
「みてろよ〜」
と思えるようになりました。
確かに今からでも乗りたいという気持ちはありました。でも、事故の次のシーズンはちょっと言いにくいですからね。(苦笑)
ここへきて、ようやく「さりげなくアピール作戦」を実行しました。また、バイクの話題を少しずつ増やし、興味があることをかなりアピールしていました。そして、思い切って言ってみました。

「私、来年こそ夢があるんだ。車も大好きなんだけど、もう一度、バイクに乗りたいんだよね。」

最初の時はあまり反応がありませんでしたが、めげずにがんばって話しつづけていると、
遂に許してもらえたのです。
条件は、うるさいマフラーにしないこと、真夏でも長袖をきること

あんなに反対していたのに、最後のOKはあっけなくて、拍子抜けするほどでした。親も、どうしてもやりたいということには、最後にはうんと言ってくれるはずです。
こんどは不法駐輪??
交通事故に遭ってしまった!!
事故後・・
もうバイクには乗れないのかなぁ・・・
心の中で「絶対もう一度乗ってやる!」
バイクに乗るよ
せっかく根回ししたのに学生だった当時、学校へ行く途中
(国道43号線で)スピード違反で白バイに捕まり一発免停
に.。

免停通知のハガキだけは、どうあがいても自宅に届きます。
ここで「免許をとったこと」は打ち明けなければならなくなりました。
捕まったとき、運転していたバイクの持ち主を聞かれて冷や汗モノだったのを覚えています。

免停講習をうけて、免停は一日で済みました。
※逆行性健忘
retrograde amnesia

頭部外傷などで意識障害が起こった後、意識が回復した時に、事故などの記憶障害の原因が起こった以前(逆行性の意味)のことまでも思いだせない状態をいいます。その時間は、数分から数週間に及ぶものまであります。

しばらくして、序々に記憶が回復することもありますが、その期間の記憶が蘇ることは稀です。
ただし、脳に損傷がないことが明らかならば、その後の生活には何ら支障はないので心配はいりません。
別のページで少し触れたように、私の親は猛反対で、二輪に関して相談なんてできるような考えの人ではありませんでした。100%説得できないと確信していました。もちろん内緒で乗る事に、後ろめたさというか、抵抗はありました。でもわがままな私はどうしても早くバイクに乗りたかったのです。目的などなくても、ただバイクに乗る事に夢中でした。

なにせバレたら勘当モンだと思っていたので、ワル知恵を働かせていました。
軽自動車税の納付書の送付先を無理に変えてもらったり、友達のつてで家に書類が来ないようにして任意保険に入りました。(任意だけは入らないと怖いので(;^ω^A )

私はどうやってバイクに乗れるようになったか

バイクで走ってるよ!
「車があるでしょう?」と猛反対
そしてとうとう、念願のバイクを購入することとなりました。だいぶブランクもあり、不安でしたが、見に行ったとき、とっても気に入ったのがあったので、思い切って契約しました。

久々に乗るバイクにどきどきしました。
久しぶりに風をきる心地よさを味わい、走りながら大声を出したいくらいでした。

家族に理解してもらい、堂々と家の庭に停められるようになった時は、本当に嬉しかったのを覚えています。だって、もうこそこそ隠れてバイクに乗る必要はなくなったわけですから。

みなさんも大好きなパートナー(バイク)に出会うために、
近しい人の理解をぜひとも受け取ってください
あぁ・・・赤切符・・・
読んで下さっているゲストさんの中には「どうしてバイクに乗るのにそれほどの修羅場を覚悟する必要があるのか」と思われる方もおられるかと思います。
しかし、私もそうだったように「バイクに乗るなら勘当」くらいの
勢いがある場合があるのです。
もちろん心配してくれていることは十分にわかるのですが、それが頑なになり、ついには「親不孝」→「不必要な人間」と感じざるを得ないような言葉もなげかけられるのです。

このように、親御さんによっては、ライダーになることを打ち明けることが、非常な勇気を要することがあります。

でも、自分の人生は一度きり。親御さんにも親御さんの人生があるように、私たちにも好きなことをやる権利があります。

ここでは、親御さんの理解を得られずにバイクを断念、もしくは
内緒で乗っている人たちに、親御さんに理解してもらう日が少しでも早くに来るように願っています。